ふなつじんじゃ
愛知県東海市名和町船津1
この地は日本武尊御東征の時、伊勢より 海を渡られ、ここに御船を着け、縄で松ノ木につなが れたので、名和船津の地名となった。社伝には十五代 応神天皇の御代(四〇〇) お社を建てられ、船戸大明 神の号を..
この地は日本武尊御東征の時、伊勢より 海を渡られ、ここに御船を着け、縄で松ノ木につなが れたので、名和船津の地名となった。社伝には十五代 応神天皇の御代(四〇〇) お社を建てられ、船戸大明 神の号を賜り縄三郷の総氏神であった。天慶二年(九 三九) 勅令で社殿を造営。四種田 (御供田、土器田 油田 番匠田)を賜わり神領となる。時に平将門の反 乱を鎮めんと藤原忠文東征の途次、武運を当社に祈願 した。それより国司、地頭の崇敬あつく、遠近より祈 願多くなる。 平治元年(一一五九) 野間の長田忠致が 源義朝をだまし討ちで殺す。 義朝の家来渋谷金王丸、長田のあと追うも社前をすぎ橋を渡らんとしたが馬進 まず。これ船津大神の神威なりと恐れ、神前に三条宗 近の銘刀を捧げて通る。世に下馬代の宝刀”とい い、その所をトドメキ橋という。永禄三年(一五六〇) 今川義元桶狭間の陣の際、正宗の刀ととり替える。こ れを達磨正宗という。南北朝の頃は戦乱つづき、神事 も衰退したが、神主藤原朝臣早川吉定大いに力を尽く し、応永二十五年(一四一八) 社殿を改修、天正十年 (一五八二) 刈谷城主水野忠重、社殿の改修費として船津山六町七畝二十七歩を寄進。 元禄八年一六九五) 尾張藩主徳川光友、天明六年(一七八六) 徳川宗睦参 拝あり。弥々社頭は参詣者で賑う。明治五年、村社に 列し、同四十年十月二十六日、供進指定社となり、昭和十九年郷社に昇格した。
建甕槌神 塩土老翁神
9等級 旧郷社
応仁天皇御代(400年)
本殿 流造 7.00坪、 幣殿 12.00坪 拝殿 10.00坪 社務所 20.00坪
9月26日
達磨正宗の銘刀
名鉄常滑線 名和駅 から徒歩11分(850m)
あり