創建は1800年前現在の倉敷市二子の高鳥居山北方50メートル余りの宮所という地に建立された。
第14代仲哀天皇の皇后である神功皇后は九州の熊襲が叛いたとき、天皇とご一緒に九州に下られ熊襲を討たれた後天皇はお亡くなりになられ三韓の内新羅が熊襲の背後にあってこれを援けている事を見抜き、武内宿禰と共に大勢の海軍をひきいて出兵し、新羅は降伏し帰国された。
時に皇后のお腹には御子を宿されておられ、福岡県筑前国槽屋郡蚊田の産屋にて皇子を出産され(後の応神天皇)共に大和国盤余雅櫻宮に凱旋の帰都、船路を二子の地に寄せられ、熊襲、新羅戦勝の奉賽と皇子のご安泰を神に祈念された。皇后は神に大変感謝され、御太刀、鏑矢、朕懐石(筑前国深江村にて朕石を採取し守石として懐中した石、又肥前国浦上村にて採取し皇后妊身の為安産の守石として懐中した石)を奉納され、以後神社の宝物としてきたが、寿永2年源平戦の際馬頭、木曽義仲勢の戦場と化し、3品の宝物を地中奥深く隠したので奪われる事を免れたが、150年たった後宝物を地中から取り出した処、長年の月日の為、朽ち損なわれていた。その宝物は現在境内の戌亥の方位に御太刀を御神体とした御太刀神社が末社としてお祀りしてある。
又当時の鎮座地は備の中津国都宇の郡二子、皇后が二子高鳥居山に宿られた事により都の家と言う意の都宇郡と名付く。地名二子は筑前国香雅宮にて誕生した皇子が、この地に立ち寄った時には2歳になられ、この宮を二子の宮と称し、地名を二ツ子の里(現在の二子)と名付けられた。
第26代継体天皇11年辛酉の春、品陀和気尊を合祀し、社号を五座八幡宮と称した。
この二子の里の沖に、松島と言う島があり、大昔は海に浮かぶ3つの小島からなっていた。特に中の島(現在川崎医科大学付属病院)の頂上に霊地があり、伝説によると二子の高鳥居山にある二子宮から毎夜不思議な神光が松島の霊地に向かって海を渡っていた。郷人達はこれは二子宮から松島の地に渡らせ給う印であろうと考えた。第48代称徳天皇の御代神託により現在の地に遷座された。
その後万寿年間にこの地方が干拓され、人々の生活が始まり地名を万寿の庄とつけられる。当社は万寿の庄総鎮守五座八幡宮として崇敬された。(万寿庄=東の庄とは現在の庄、中の庄とは現在の中庄、西の庄は現在の大島あたり)
寛文7年岡山藩主池田新太郎光政侯が万寿の庄の領内に令を下して神仏分離を行った際に、領内近郷11カ村(西は浅原、東は矢尾村)の小社、新社を五座八幡宮の相殿に寄宮として合祀し、春日神社の御神号を京都の吉田家から賜る。
寛政年間万寿の庄内の村々に産土神社を奉斎し、松島、二子、西栗坂の3カ村の鎮守となる。明治5年社号を両児神社と改称し、現在も厚い崇敬を受けている。