八大神社は、京都市左京区一乗寺松原町にある神社。八大神社の境内地である一乗寺下り松にて、慶長九年(1604年)、弱冠21歳の宮本武蔵が京都の名門・吉岡一門と決闘したと伝えられている。境内には若き日の武蔵が二刀流で構える像が立っている。
【一乗寺下り松】
現在も植え継がれ、現在4代目の「下り松」があり、松の側に大きな石碑がありますが、その石碑には、“宮本 吉岡 決闘之地”という文字が記されています。
【宮本武蔵】
二刀流で知られる天下無双の剣の達人・武蔵は、13歳という若さで最初の決闘に勝ち、30歳になるまでに60回以上にも及ぶ決闘を行い、その勝負は負け知らずでした。その中でも、武蔵にとって最も重要だった決闘が吉岡一門との決闘で、この戦い後武蔵の名は天下に知られることとなりました。
【吉岡一門との決闘】
その決闘の詳細は諸説あるようですが、一般的に伝わるところで言えば、決闘は3回、行われたようです。
決闘1.一撃で清十郎を倒した武蔵!
最初の決闘は、1604(慶長9)年の春、京都の蓮台野で行われました。多くの門弟たちが見守る中、清十郎が刀を振り上げた瞬間、武蔵の動きが一瞬早く、武蔵の刀が清十郎の腕を切り落とし、清十郎は敗れました。
決闘2.伝七郎との戦い!
それから間もなく2度目の決闘を行います。次の相手は清十郎の弟である師範の伝七郎。伝七郎は150センチある長い太刀で武蔵に挑みましたが、武蔵に太刀を奪われ、逆にその太刀で斬り殺されてしまいます。またしても武蔵の勝利となりました。
面子丸つぶれの吉岡一門は、武蔵に総力で挑むことを決意します。それが3度目の戦いとなる「一条寺下り松の決闘」です。
決闘3.一条寺下り松の決闘
武蔵はこの決闘にはただならぬ覚悟をしていたようで、下り松に向かう前に必勝祈願をするため、途中にある八大神社に立ち寄り拝殿の前に立ちました。しかし手を合わすことなく、頭を軽く下げただけで立ち去ったと言われています。この時の心境は武蔵が晩年書き記した「独行道」という書物に残されています。
『我、神仏を尊んで、神仏に恃(たの)まず』武蔵は己の力を信じ、神頼みをするのではなく、武士らしく闘おうとしたのです。
武蔵 vs 数百名の吉岡門弟
夜明け前、まだ薄暗い一条寺下りの松。そこに集まった吉岡の門弟の数は数百人にのぼったとされています。この時の吉岡の大将は吉岡源次郎。12歳というまだ幼い少年でした。その源次郎の居る場所を見極めた武蔵は、下り松に向けて一気に駆け下り門弟たちの背後にまわり、躊躇することなく、元服前の子供だった源次郎を斬り殺したのです。
武蔵は二本の刀で鬼神のごとく相手を斬り、ついに門弟たちを突破して逃げ去り、九条大宮にある東寺の塔頭「観智院」身を隠したとされます。