源頼朝存命の治承4年(1180年)勅許に依り「館」が建てられた。その館を「清浄殿」と名づけた。それが当寺の原型となった「廣澤の清浄殿」である。執権職北條時宗の時、すなわち文永3年(1266年)仲秋、宗尊親王の命に依り、源実朝の御台所久米御前(法名「廣澤院従二位承山寶臺禅定尼」)の菩提を弔うためにこの、清浄殿を「廣澤院寶臺寺」とした。寺院として建立したのである。その後、一遍上人の弟子である他阿上人が遊行のために立ち寄った寶臺寺、すなわち、当寺を時宗における道場とした。そして、他阿上人開山の寺として寺域を整えた。当寺には時宗の塔婆である「南無阿弥陀佛」の六字名号を著した石碑「板石塔婆」が10基(県指定文化財)現存している。同じく、他阿上人の木像(県指定文化財)も安置している。
さらに、江戸時代、徳川家康に浄土の教えを説き、師壇の関係を結んだ観智国師が当寺の中興開基となっている。