當山の由来は、今を去る事三百数十年前、元和(1615~1623)の頃、元真言宗の尼寺であったが、覚仙院日逕上人は老母妙仙院日圓法尼の菩提のため、日蓮宗に改宗し、老母を開山とし、日逕上人自らは開基第二祖となられた。山号は開山日圓上人にちなみ日圓山とし、寺号を妙法寺と号した。
当初は、目黒碑文谷の法華寺の末寺となりましたが、元禄12年(1699)3月、身延山久遠寺の直末となりました。この時、法華寺から除厄け日蓮大聖人の霊像を お迎え致しました。この像があらゆる災難除けに霊験あらたかなことから人々の信仰を集め、法運隆盛をきわめて 今日に至っております。
祖師堂に安置し奉る日蓮大聖人像は、世に「除厄け祖師」と呼ばれ、江戸時代から現代に至るまで、霊験あらたかなことでひろく信仰を集めています。
弘長元年(1261)日蓮大聖人が鎌倉由比ヶ浜から流罪の為、伊豆伊東に流される直前の事。
日蓮大聖人の身を案じ、お役人たちの制止を振り切った弟子の日朗上人は、やっとの思いで聖人の乗った船に近づきお供を申し出ました。
ところが、その信念に恐れをなしたお役人は逆上し、怒りのあまり櫂で腕を打ち砕き、日朗上人は波打ち際に倒れ込んでしまいました。
弟子の進言も聞き入れられる事なく、船が漕ぎ出ようとした時、「旭が東天に輝くときは、汝の無事であることを思う。日が西に照るのを見たら日蓮は伊東で無事であることを知れ・・・」とのお言葉を日蓮大聖人は残され、船は高波の沖に消えて行きました。
日蓮大聖人のお姿が見えなくなっても、日朗上人の御題目の声はいつまでも由比ヶ浜に響いていたそうです。
爾来、日朗上人は鎌倉に留まり日夜、幕府に捕らわれた大聖人の身を案じ、生き別れた由比ヶ浜にて祈念を続けられます。
何十日たった頃でしょうか・・・ある夜のこと。 不思議な光を放ち漂う霊木が、日蓮大聖人の見えなくなった沖から日朗上人の膝もとまで流れて参りました。
日朗上人はその霊木が佛天の導きと拝し、日蓮大聖人のお姿を彫刻し、その尊像に昼夜を問わず給仕し、ご無事を願いお仕えし続けました。
約壱千日を過ぎた三年後に祈りは報われ、日蓮大聖人がお戻りになられました。 日朗上人は、早速に御尊像をお見せすると、日蓮大聖人は守護の信仰に大変喜ばれ、自ら尊像開眼し、魂を込められました。
この時、日蓮大聖人が数え年42歳だった事から、この御尊像を「除厄け日蓮大菩薩」と呼ぶようになりました。