上野山誠照寺(うわのさん じょうしょうじ)の起源は、承元元年(1207年)親鸞聖人が越後へご配流のとき、越前上野ヶ原(うわのがはら)の波多野景之の別荘にご滞在になり、弥陀本願の要法を説かれた、いわゆる、初転法輪の聖地に始まるとされています。
景之は念仏の行者となり、のちに空然(くうねん)と称したと伝わります。現在ではこの地を「車の道場」と称しています。
その後景之は聖人の第五子道性をこの車の道場にお迎えし、その息男、如覚上人とともに教化活動をされたといいます。
如覚上人の代に車の道場の地が手狭となったので、波多野景之の寄進により現在の地に移り、時の帝、後二條天皇より「真照寺」の勅額を賜ったと伝わります。
道性・如覚両上人は正信偈・和讃をよりどころとし、勧化章(かんけしょう)を作って教化にあたり、念仏のみ教えは越前はもとより加賀・能登・越後・美濃へと広まり、「和讃門徒」といわれました。
永享9年(1437年)第七代秀応上人の代に後花園天皇(1428年~1464年)より改めて「誠照寺」の勅願を賜りました。
室町時代は越前でも長禄合戦をはじめ戦乱があいつぎました。1500年代後半には本願寺率いる越前一向一揆勢との激しい戦いや羽柴秀吉の兵火による伽藍の焼失、江戸時代はじめの寺院法度をうけ、上河端常楽寺や誠長寺との本山争いなどで宗勢は一時大きく衰微しました。しかし中興上人といわれる第十五代秀諴(しゅうかん)上人が入寺され、閻浮檀金手引阿弥陀如来の本尊としての勧請により、讚門徒誠照寺教団として一躍再興されました。
江戸中期、第二十代秀実上人の頃には隆盛を極め、後年、摂家二条卿を猶子家とする格式を得て、現法主、二條秀瑞猊下(にじょう しゅうずい げいか)まで三十代の永きにわたり、真宗本願他力念仏の根本道場として伝灯相承され、今日に至っています。
誠照寺のいま
現在は宗教法人「真宗誠照寺派」の本山として、鯖江市を中心とした真宗門徒のよりどころであり、「誠市」などいろいろな催しを通して、地域社会に根差した本山となっています。