やまぐちじんじゃ
和歌山県和歌山市谷377
以下、和歌山県神社庁該当ページより引用
古くは日吉・春日神社といわれたが、明治42年、中山王子社・山口王子社・白鳥神社をはじめ、山口村各地の神社を合祀したのを機に、山口神社と改称した。 昔か..
古くは日吉・春日神社といわれたが、明治42年、中山王子社・山口王子社・白鳥神社をはじめ、山口村各地の神社を合祀したのを機に、山口神社と改称した。 昔から当神社の祭神と伝えられている伊久津比売命は、いかなる女神か、またどの神の配偶神か明らかでないが、古くから安産の神として信仰されていた。 当社の創建は詳らかでないが、延暦年中、桓武天皇が紀州玉津嶋に行幸されるに先立ち、征夷大将軍坂上田村麻呂を摂津・和泉・紀伊の三国に遣わし、所々に行宮を造らせて準備させたというが、そのとき建てられたという伝承がある。 また田村麻呂の墓という将軍塚や、田村麻呂の五世坂上五郎の居城跡と言われているところもすぐ近くにあり、長く坂上一族が当神社の祭礼の中心であったようである。 また田村麻呂がやって来た時、その送迎にあたった者が十番頭人として神社の祭礼に重要な地位を占めて、代々引き継がれ、江戸時代まで続いたという。 いずれにしても当神社は平安朝初期には創建されていたようで、平城天皇が熊野行幸の時勅使を立てて神殿を拡大したとの伝承もある。 また『紀伊続風土記』によると、「延喜式神名帳名草郡に伊久比賣神社あり又本國神名帳従四位上伊久比賣神あり」とし、この「伊久比賣神」は当神社の「伊久津比売命」でなかろうかと記している。 平安時代後期から鎌倉時代にかけて、上皇や女院の熊野参詣が盛んとなり、その街道にいわゆる九十九王子社が各地に建てられた。 当神社は王子社ではないが、熊野街道沿いにあり、上皇や女院もしばしば立ち寄ったと伝えられている。 豊臣秀吉が天正13(1585)年紀州攻めを行ったとき、根来寺などとともに当神社も兵火にあい、神殿はもとより宝物や古記録のほとんど全てを焼失した。 その後、紀州国主となった羽柴秀長(秀吉の異父弟)によって再興され、さらにこの地は和歌山城の艮(鬼門)にあたるとして、紀州の大名となった浅野氏や徳川氏の援助を受け、江戸時代初期には近辺にない立派な神殿が再建された。 昔は祭礼には神輿や騎馬渡も盛大に行われたと伝えられるが、いつの頃からか廃絶され現在に至っている。
山口神社(やまぐちじんじゃ)は、和歌山県和歌山市谷に鎮座する神社。鎮座地は和泉山脈の南麓、和泉国から紀伊国へと抜ける雄ノ山峠近くに位置する。社域の中心には向かって左(西側)の日吉神社と右の春日神社が並立するが、日吉神社を本社とする。旧村社。