山口大神宮は、永正17年(1520)に大内義興が朝廷に奏聞して勅許を得、伊勢皇太神宮のご分霊を勧請した神社である。
14世紀の中頃から、大内氏は山口に本拠を置いていたが、京都で応仁の乱がおこり、その兵火で京都が疲弊するに反して、山口の町は平和で豊かであった。それで都から移り住む公卿や文化人などが多く、山口は西の京都といわれる程の繁栄を誇った。
大内義興の時代、前将軍足利義植が京都を追われ、山口に来て大内氏にたよったが、義興は、永正5年(1508)6月、これを奉じて上洛し、以後11年間、管領代として将軍に代わって日本の政治にあずかった。この間大内氏の武力と財力はよく京都の治安に任じ、義興が管領代であった11年間は、応仁の乱後京都にはじめて平和の気分がよみがえったという。
義興は京都に滞在中、永正11年(1514)に伊勢の皇太神宮に参拝した。この参拝については予め有職故実家の伊勢貞陸に作法慣例をたずね、その指示に従って周到な用意をしたという。参拝した義興は、その森厳な神霊にうたれて、この太神宮を山口に勧請したいという気持ちをもったのである。
義興は永正15年8月に、京都を発って10月に11年ぶりに山口に帰ったのであるが、帰るとすぐ太神宮を勧請する用意にとりかかった。義興は自らその社地を視察し、高嶺の東麓を境内地と決め、すぐに社殿建立の御作事始めを行った。そして永正16年11月に外宮、17年4月に内宮が落成した。それで義興は天皇に太神宮勧請を奏聞し、勅許を得て17年6月29日に神霊を遷宮したのである。
当初は社号を「高嶺神明」と称えていたが、後柏原天皇から「高嶺太神宮」、後陽成天皇から「伊勢」の勅額を賜ったりしてから、「高嶺太神宮」「今伊勢」と称せられるようになった。昭和3年、社格が県社となり、「高嶺神社」と称することとなったが、昭和22年「山口大神宮」と改称した。
御神殿の造替遷宮のことは、永正17年、両宮御鎮座の後、天文9年が21年目に当ったので造替された。この様に皇太神宮に範をとり、最初は21年目に式年遷宮を行ったが、それ以後は、戦乱など時代の世相を反映して、必ずしも21年毎の式年遷宮は行われず、延期したり、規模を簡単にするというようなこともあった。近年では、明治12年、35年に式年遷宮が行われたが、その後は太平洋戦争のこともあり、昭和35年に造替、さらに平成12年に式年遷宮を行った。
伊勢皇太神宮から直接御分霊を受けて、太神宮社が創建されたのは、明治になるまでは日本国中では実にこの山口大神宮だけであった。以来御神徳は赫々として現在に及んでいる。中世大内氏の太神宮尊崇は言うに及ばず、江戸時代、毛利氏の時代となっても、領主の社領寄進、鳥居建立など、ますます太神宮を尊んだ。