こがねやまじんじゃ
宮城県遠田郡涌谷町涌谷字黄金宮前23
聖武天皇が即位した神亀元年(724)、律令政治が安定するまで多くの政治闘争が起こり、政府が積極的に東北進出を図った時期で、アジアでは活発なシルクロード交易が日本にさまざまな物資や文化をもたらす一方、..
聖武天皇が即位した神亀元年(724)、律令政治が安定するまで多くの政治闘争が起こり、政府が積極的に東北進出を図った時期で、アジアでは活発なシルクロード交易が日本にさまざまな物資や文化をもたらす一方、朝鮮半島の新羅が唐と結んで勢力を増長し、東アジア各国間の緊張が高まった時代でもありました。 このような国内外の政乱に応じて聖武天皇は何度か都を遷した上、たび重なる災いに鎮護国家の思想から世の中の平和を仏に祈願し、天平15年(743年)永遠に照らし続ける光明によって人々を救うと言われる廬舎那仏建立の詔を発布したのです。この廬舎那仏が世界最大の金銅仏(銅に鍍金して仕上げる仏像)である「東大寺の大仏様」です。しかし、大仏建立にあたって、最大の問題は鍍金用の金でした。当時、金はすべて輸入しており、大仏に鍍金する膨大な量を手に入れる見込みは全くなかったのです。金の不足で大仏の完成が危ぶまれていました。そのような中、日本で初めて金を産出し、天平21年(749)陸奥国守百済王敬福が、小田郡産出の砂金900両(約13kg)を献上したのです。 天皇は宣命を発して大いに喜び、年号を「天平」から「天平感宝」へと改めたほどです。 大仏はこの黄金で完成し、天平勝宝4年(752)、盛大な大仏開眼の供養会が催されました。この供養会には、日本だけでなく外国からも大勢の僧が列席した上、さまざまな舞楽が披露されるなど、仏教が日本に伝わってから最も盛大な儀式であったと伝えられています。 小田郡の産金に報い、陸奥国の租税は3年間免除され、陸奥国守百済王敬福をはじめ関係者には、位階を進めてその功を賞されました。また、祈願奉斎が行われ、地方的神社として存在しておりました黄金山神社は、天平産金に縁起を有したことにより、『延喜式神名帳』に登載され、延喜式内社という由緒ある社、国家の神社となりました。 神社周辺からは、「天平」と刻まれた瓦が出土しており、昭和32年に実施された神社周辺の発掘調査により、建物の柱跡四基が発見されました。この建物は、当時世の中をわかせた産金を記念して建てられたものと考えられ、奈良時代の建築址が明らかになりました。 建築址は神殿のうしろ、玉垣の中の神木付近で、産金を記念し仏に感謝するため、陸奥国府の役人により建てられた仏堂であろうと推定されています。仏教が国家の政治と結び付き、神も仏もほとんど差別なく、むしろ仏教が優位の時代でありましたので、産金の盛んな間は神社と仏堂とは並んで存在したと考えられています。 鎌倉初期以降、土地の人々が砂金獲得から農業へと転じ、仏堂は朽ちていき、神社だけは民衆の信仰に支えられ今日に至っており、現在の拝殿は江戸時代末期に再建されました。
黄金山神社(こがねやまじんじゃ)は宮城県遠田郡涌谷町黄金迫(こがねはざま)に鎮座する神社。日本で初めて金を産出した場所である。延喜式神名帳の「陸奥国小田郡 黄金山神社」に比定される。旧社格は県社。