すわじんじゃ(えじり)
宮城県角田市江尻字古川1
①寧楽時代後期の天平(西暦756年)頃から神名備が現在地近くの土井の内にあり、祈祷や祭りの時だけ仮小屋等を作る古代祭祀の場所があったとの伝承有り。但し、どんな神々を奉っていたかは不詳である。②平安時..
①寧楽時代後期の天平(西暦756年)頃から神名備が現在地近くの土井の内にあり、祈祷や祭りの時だけ仮小屋等を作る古代祭祀の場所があったとの伝承有り。但し、どんな神々を奉っていたかは不詳である。②平安時代前期の大同元年、第52代平城天皇(西暦806年)に余りにも西山棘道なれば現在地近くの海道辺りに移転したものなり。この時代は熊野山伏神楽や里修験者の本山派修験道院が有ったと記録有り。承和13~15年頃(西暦845年)に増珍と言う方が白河関守護のご意向を承り、この里(伊具)に19ヶ所開基された。③鎌倉時代の建任元年の頃(西暦1201年)北条一門の御内人が長野諏訪大社より岩城の国西根江尻村を始め伊具の里に9座分祀され、当社は諏訪明神と称し、御祭神は[建御名方大神]1尺5寸の石祠を建立し修験道院に相院合祀された。当時江尻には関主職、江尻紀伊守の加護神として奉られた。また、この館は地蔵館と呼ばれ敷地南北14間、東西8間、120坪が存在し村人達は江尻城とも呼んでいた。④後奈良天皇の天文4年(西暦1532年)の頃に地蔵館主(江尻紀伊守、城主の彦右衛門)が立ち退いて、大和石川家が京都聖護院(御所)から大先達として法印大和向宝徳を招き、本山派法道院諏訪山善方寺と改め寺院の創設に当った。この時は修験道院と相院しながら大和朝廷に移住許可の申請をして開基された。当時の江尻村一村軒数40戸(江尻町小頭、横山運七)、給人町一村軒数25戸(江尻町肝入、弥三郎)とあり、現在の祭り日は永禄年中(西暦1558年)に定まっていて、平成の世の今も受け継がれている。⑤明治5年3月に神仏分離令発令により、氏子総代相諮り「諏訪神社」と改め、明治14年10月土井の内より現在地古川により江尻氏子中(宮司・半澤記森、戸長・岡崎茂吉等20人の御世話人)によって、陸前国名取郡岩沼本郷の大工棟梁安達俊策によって、総流れ造り・萱葺き四方の上部は総桝組み、前2本の柱に対して海老紅梁を用いて、唐草等の彫刻をなす欄間付きとして御本殿は造営、神輿も同じ彫り物にて奉献された。⑥大正9年1月23日、次の村社諏訪神社に合祀された。総善社・駒形峯神社(馬頭観音)…御祭神 宇迦廼魂神・保食神。現在は境内地と祠有り、江尻字寺前53-1。愛宕権現(丸山高3丁)…御祭神 火産日の神。現在は境内地と祠有り、江尻字木所76-1。稲荷社…御祭神 宇迦廼魂神・保食神。私有地で祠有り、江尻字谷津(林七地)高の内。熊野社…御祭神 神祖。私有地で祠有り、江尻字夫内(林七地)高の内。八幡神社(給人大檀那除地)…御祭神 誉田別命。現在は境内地と祠有り、江尻字93-1。石山神社…御祭神 石長姫命。私有地で祠有り、江尻字太田切。⑦昭和24年10月11日、御本殿草萱葺き屋根腐朽甚だしく草葦求め難い状況となり。当時の宮司半澤禎治、氏子総代鈴木謙吾、保科兵五郎等と相諮りて
建御名方神
4月15日
阿武隈急行線 岡駅から車で20分ぐらい
無料
1台分
なし