宿敵平氏に勝利し、最大の政敵と目された実弟義経(よしつね)をも亡き者とした源頼朝(みなもとのよりとも)は、文治5(1189)年、最後の対抗勢力 奥州藤原氏を滅ぼす戦を起しました。後世「奥州征伐」とも「文治の役」とも呼ばれる、鎌倉幕府の支配体制を固める総仕上げの戦でした。
これに対して藤原氏は、国見の厚保樫山(あつかしやま)に防塁を築き、当主泰衡(やすひら)の異母兄 国衡(くにひら)を総大将として兵二万騎をもって迎え撃つも、わずか1日で敗退しました。退却を余儀なくされた国衡は、笹谷峠を越えて出羽へと逃れようとしたものの、柴田郡大高山神社付近の深田にはまり込んだところを討たれてしまいました。
小島のように残された杉小森。丘上に「白九頭龍神社」が営まれる
国衡の首は頼朝の元に送られ、胴は打ち捨てられましたが、藤原氏を慕う領民たちによって、 松川河畔の小丘に葬られました。その後、この丘上に祠が営まれました。祠は「白崩叢祠(しろくずれぞうし。城崩と書くこともあったようです)」と呼ばれていましたが、江戸中期には「白九頭龍大明神社」と改められ、今に至るも地元の人々によって手あつくお祀りされています。なお、この小丘は円墳といわれており、藤原氏の終焉を物語る遺構「白九頭龍古墳」として蔵王町指定文化財となっています。