古来より石(いわ)神社とも称していた。『三国地志』によれば、当社は比々留明神祠と言い、比々留明神はひびる谷つまり昼生七郷の総社として崇められていたとのことである。御巫清直の『神社検録』は、次のように記述している。「其村(三寺村)ノ産神村ノ西ナル小山二在、広大ノ社地ニシテ、樹木欝葱シ兆域ノ嵓鑿壁鑿セルカ如シ、實二千歳ノ旧祠ト見ユ、社前ノ田ヲ石カ原卜云ヒ、東ノ谷ヲ天神カ谷、北ノ谷ヲ岩ノ谷ト字ス、西ハ馬場ノ畠二列リ、ママニ古道アリテ域内二人ル、礼南ノ小山二嶮路ヲ開キ、鳥居ヲ建テ扁額ヲ掲ケ正一位晝生大明神ト記ス、文化年中ノ所作ナリトソ」一時期、昼生大明神と称したのは、いつの頃にか社号が不明になって行ったかららしく、本来は、社参道の口に立っている「石神礼拝所」と書かれた石標の示す通り、石神社であるとしている。(明治七年建立)当神社所蔵の獅子頭一ロは、古来三年に一回ずつ安知本から下の庄に至る道中を順に舞ってまわる慣例になっている。