九鬼岩倉神社は、明治40年(1907)に加茂神社の地に小学校を建てるのを機に、それまで岩倉の夫々の場所にあった萩原神社、八幡神社をも纏めて九鬼神社に合祀し、加茂八幡九鬼神社と称した。 九鬼神社は天正2年(1574)伯父の九鬼嘉隆に殺されたとされる九鬼澄隆の霊を慰め九鬼家の子孫の繁栄を祈るため、寛永3年(1626)九鬼家が田城の砦跡に建てたものである。元禄16年(1703)正一位を贈られ九鬼総領権現と称した。 加茂神社は古くから岩倉字森地にあって伊邪奈美命を祭神とし、鴨明神、鍬形明神あるいは岩倉明神とも言われて農耕産業の神として崇められてきた。 萩原神社は古くから牛頭天王とも言われていて、素戔鳴尊を祭神とし疫病災厄を防ぐ神として岩倉字倉谷で祭られてきた。 八幡神社は澄隆の曽祖父九鬼泰隆が田城に砦を築いた天文年間に住吉の山城男山八幡宮より勧請し岩倉字中尾に祭られた。江戸時代には流鏑馬の神事も行われていたようである。 明治43年一村一社の指示を受け、九鬼神社を残し加茂神社、萩原神社、八幡神社の祭神を分祀し白木地区、河内地区の神社とともに松尾地区の蕨岡神社に合祀して加茂神社と称した。 戦後の昭和30年(1955)に加茂神社、萩原神社、八幡神社を加茂神社から分祀し、再び九鬼神社と合祀して九鬼岩倉神社と称し現在に至っている。