当社は、天文・弘治年間(1532-58)、伊勢国司北畠氏第4代当主・北畠教具(のりとも、1423-71)の三男・具郷(とものり、1528-76)が、この村に築城して佐田丹後守と名乗った。教具は、具郷に命じて北畠氏の守護神「若宮八幡宮」を勧請し、城の鎮守として祭らせた。1576(天正4)年、北畠氏第8代目・具教が暗殺され、北畠氏は滅んだ。具教の孫・忠英は、このときに自害。ひ孫・定勝は度会郡岩出城(現・玉城町岩出)に移り、北畠を再興しようと図った具教の弟・北畠具新(ともちか、生年不詳ー1586)の軍に参加したが、敗退。毛利氏を頼って落ちのび、佐田城は滅んだといわれている。村人は、旧主君の恩を報いるため、旧跡に若宮八幡の社を再造営し、のちにこれを若之神社に改めて、産土神(うぶすながみ)として祭ることにした。