ありまのじんじゃ
三重県松阪市飯南町有間野 1147
当社は古来より有間野の氏神として氏子の崇敬を集めてきたが、その創始については天正5年(1557)に鷹民山城の麓に位置する鉄中城が落城した時、社殿、旧記等全てが焼失したため詳かにしない。ところで、その..
当社は古来より有間野の氏神として氏子の崇敬を集めてきたが、その創始については天正5年(1557)に鷹民山城の麓に位置する鉄中城が落城した時、社殿、旧記等全てが焼失したため詳かにしない。ところで、その際神鏡のみ兵火を免れたが、それも享保11年(1726)に紛失、よって松坂在住の長井与四郎方堅が新鏡を奉納した。しかしながら、享保20年(1735)再び失われたため、有間野に住む長井喜八郎が奉献したことが天保14年(1843)の滝野神社飯高信勝の記録にみえている。また、享保年間には紀州藩主より神祭料として新たに、一石八斗六升の寄付を受け、毎年正月、12月二度の神祭を懈怠なく勤めたことが伝わっている。明治42年6月11日、境内社稲荷社、中山浅間神社、上出山神社を合祀のうえ有間野神社と単称。更に昭和10年5月6日、神饌幣帛料供進社となる。
天之忍穂耳命、天之菩卑命、天津日子根命、活津日子根命、他7柱
無し
有り