「明治三九年(一九〇六)神社 明細帳』に「村社八幡神社(品陀和気命)字大鳥居前鎮座、由緒土人の口碑に遺存するは、村名往時は大基と云う、中古読易きが為に大木と改める、当社の別当は員弁寺、天正の兵火に焼失し創立年月は不詳と雖も、慶長の末年迄は兵乱の時世民安堵に到らず、因て旧地に小社を設け該村の氏神と尊崇する処、元和の初めに到りて静謐の世となり、本殿拝殿を修営致す、尤も古社たることは摂社も、三社有り御旅所の社あり、祭式の故例も有之処天正の兵火後其例亡びたり、宝暦一一年(一七六一)古社取調の節該村の許可あり」とある。又同書に、「天王社(須佐之男命)字西屋敷鎮座、往時疫病流行して民困却す、依て該社を八幡社の摂社として祀り尊崇す。熊野社(伊弉諾尊、速玉之男命、事解之男命)字浜井場鎮座、八幡社の摂社、地頭青木駿河守の鎮守という。若宮社(豊受比賣神)字南条屋敷鎮座、八幡社の摂社、蝗害を防ぐために勧請したという。赤口神社(久那斗神)字南条屋敷鎮座、八幡社の御旅所、歳迎への社ともいう」とある。明治四〇年(一九〇七)八月八日前記明細帳の五社と他の諸社を八幡神社に合祀した。而してその八幡神社を明治四二年(一九〇九)三月に天王社の跡地に移し現在の大木神社となった。尚、赤口神社について『員弁雑誌』に、「社護神ノ社 村内に在、里俗の伝に云、此御神体は金の鳥にて日本国四ケ所の霊地也、此神体を祀る地は天雷落つると雖も火災に遇うことなし、此の社地昔は広大なりしが、今は纔に神社名一ツを残せしを、近来小社を営造して祀るという。」とある。