ささがねじんじゃ
福岡県久留米市篠山
かんえい 寛永十四年(一六三七)十二月一日国老稻次壱岐宗雄のぼり 老齢 久策の中交戦が続いたが、二月二十七日鍋島軍が単独 で動いたため久留米軍も続いて追撃、二十八日には一 斉攻撃が行われ、昇奉行余田..
かんえい 寛永十四年(一六三七)十二月一日国老稻次壱岐宗雄のぼり 老齢 久策の中交戦が続いたが、二月二十七日鍋島軍が単独 で動いたため久留米軍も続いて追撃、二十八日には一 斉攻撃が行われ、昇奉行余田惣右衛門によって敵城頭 高く昇が立てられ久留米軍の先頭が明示された。この 攻撃により乱は鎮定され、三月、軍は久留米に凱旋た。豊氏公は統率した有馬内記はじめ出征者を慰労し、 統率の下、久留米藩の原城攻略の軍が出陣。十五日落 主豊氏公の子忠郷着陣。立花軍が多数死傷者を出す中、 慎重に攻撃準備を進め兵の損耗を防いだ稲次壱岐だったが偵察中に敵弾を受け、「戦死こそ武士の本懐」と して療養を拒み陣中に没した(八十歳)。翌年一月一 日の総攻撃により幕府の征討使板倉重昌が封死、諸軍 総崩れとなり、米藩戦死者は九十七人に及んだ。四日、 幕府軍の松平信綱が到着。また幕府の命によりすでに であった藩主豊氏公も江戸より出陣した。以後戦死者を手厚く弔た。勇猛なる戦死者たち百七十三 柱の御霊は、ここ篠根神社に奉祀されている
(出典『久留米人物誌』『久留米市史』他)
ご祭神 島原の乱戦没者の御霊 みたま
有り