天正十八年(1590)に徳川家康が江戸へ入城した時に摂津の国、佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁民を江戸に呼び寄せ、海と川の漁猟の子かを与える江戸城へ魚類の納入を命じた。
寛永年間には漁民に隅田川河口の鉄砲洲東の干潟が与えられ、その地を故郷の地名をとって佃島と名づけ、白魚上納の特権を与えた。
その後、享保四年(1719)に富岡八幡宮の南方海浜に佃島漁民の網干場の土地が与えられ深川佃町と称した、今の牡丹二、三丁目にあたり、此処に、佃島住吉神社より分霊された小祠が祀られている。
深川佃町はその後、町家の地になり一層発展して深川岡場所(花柳街)のひとつとなり、地名を通称「つくだ」または「あひる」と呼ばれたのである。寛政四年(1792)頃の花街の妓楼は料理茶屋が十五軒、水茶屋も十軒程あって大層繁栄した。
天保の改革により花街も一時は衰退したが、後に復興して明治維新まであったといわれている。
尚、境内の石鳥居、石灯篭は江東区の有形文化財、力石(さし石)は区の民俗文化財に指定されている。
(境内の『住吉神社の由来』より)