万治二年十二月(西暦1659年)江戸の花街新吉原京町一丁目三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にて、艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛を誇ったといわれる。
生国は野州塩原塩釜村百姓長介の娘で当時十九才であった。
その高尾が仙台藩主伊達綱宗候に寵愛され、大金を積んで身請けされたが、彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて候に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又(現在の中州)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ川中に捨てられた。
その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構え居合わせた僧が引揚げてここに手厚く葬ったといわれる。
高尾の不憫な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り高尾稲荷社としたのが当社の起縁である。
現在、この社には、稲荷社としては全国でも非常にめずらしく、実体の神霊(実物の頭蓋骨)を祭神として社の中に安置してあります。
江戸時代より引きつづき、昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く縁日には露店なども出て栄えていました。