当社は創立年月不詳なれど古書に曰く「往古早昧の時代、千葉氏の残党実籾字本郷に来り、又古河御所の余党実籾字八幡前(三山大須那地より印旛沼に通ずる水田付近)に竄入し八幡社を建立、再起戦勝を祈願せり云々」とある。即ち第七十四代天皇鳥羽帝の御代平氏を祖とする千葉介三代常兼(桓武帝十世に当る)の時、西暦1107年千葉氏一族に内紛抗争起こり、猪鼻城(今の千葉城のある所)に住むを潔しとしない将兵が野に下り、実籾本郷に住み農耕を営み大宮・大原神社を建立した。
その後当八幡前には下総古河に関係ある千葉氏一族が猪鼻城や千葉の町を灰燼にした(西暦1450年)前後に住みつきこの八幡宮を建立し再起戦勝を祈願したと伝えられる。
この辺一帯は昔小金牧と呼ばれ徳川八代将軍吉宗の頃馬の放牧用地として召上げられ、明治四年には陸軍練兵場に定められた。同六年四月明治天皇の行幸を仰ぎ陸軍大演習が展開された時、天皇は総指揮官篠原閣下の名を讃えて習志野原と命名。
明治二十三年からは遊猟場となりうさぎ・きじ等を飼育して冬に貴人達が村人と一緒に狩を楽しみ、同三十七・八年の日露戦役から此の境内地をも含めて俘虜収容所用地として陸軍省に買収さる。其の後第十五師団臨時駐屯し此の神社の丘を平坦にせむと崩し始めるや怪我人続出し工事渉らず。然れども軍の命令は厳しく尚も続行するが遂にその工事長高熱を発して仆る。只事ならずと工事の中止を歎願すればさすがの陸軍省もその神罰を恐れ現在の塚だけを残し玉垣を囲み境内地となし軍の管轄より除外せり。
師団内の歩兵第五十八連隊第一中隊長信仰心厚くよく兵と参拝し射撃大会は三年間連続して師団一となる。後年同連隊越後の高田へ移駐と決定。八幡宮は連隊発祥の地なるを故となし守護神として高田連隊に遷宮する。
然るに連隊内に悪疫流行し、連隊長(後の堀内大将)大いに心痛す。或る夜稲荷夢枕に立ち「旧つ御座に還りたき」とのお告げあり、急遽北陸より着剣武装兵警護のもとに還御せり。されば猛威を極めた悪疫もたちまち霧散し一同改めて御神霊の尊さに戦慄したという。
為に五八稲荷の称は今日にも及び又、俗に出世稲荷とも云はれ当たる、栄える神として近郊の信仰を集めている。
明治四十三年四月二十八日政令により土地・立木を本社大原神社に譲与合衹された。
大正七年に建築された本拝殿は昭和六年十二月一日不慮の災いに遭い一切を烏有に帰したが、軍の絶大なる支援を得て氏子崇敬者一丸となり翌七年今の神殿が竣工した。
昭和四十七年二月社務所奉献されたその竣工の日(境内の御由緒より)