こみのわはちまんぐう
大阪府東大阪市古箕輪1-19-15
もと箕輪村に含まれる古箕輪は、新開池の南東に位置し、大和川付替え以前は池の藻草を刈り、魚を採って生活していた漁村でした。新田開発後は農村となりましたが、南方の村々の悪水で例年作付けに水難を受けるため..
もと箕輪村に含まれる古箕輪は、新開池の南東に位置し、大和川付替え以前は池の藻草を刈り、魚を採って生活していた漁村でした。新田開発後は農村となりましたが、南方の村々の悪水で例年作付けに水難を受けるため、踏車を使って悪水を排水し、また天水場であるため日照りの時には干害にみまわれたといわれています。 氏神である八幡宮は、創建は不明ですが、本殿は一間社流造柿葺で江戸時代中期の建築とみられ、また境内の鳥居に寛保元年(1741)の銘があり、拝殿前の燈篭に明和元年(1764)の銘があることから、新田が開発された後に、神社が整備されたことがわかります。拝殿には、幕末から明治初めに奉納された元寇、神功皇后朝鮮出兵図、江戸時代の風俗図、天皇に将軍・御三家等が供をした加茂明神参詣図などの明彩な絵馬が残されています。 また、正面左にある燈篭は、天保2年(1831)銘の「おかげ燈篭」です。竿に「おかげ」と刻むこの燈篭は、江戸時代に伊勢参宮が流行し、ほぼ60年毎に「おかげ参り」と呼ばれる集団参宮が行われた際に、村人達が神恩を感謝して奉納したものです。東大阪市内には合計18基の「おかげ燈篭」が知られていますが、文政13年/天保2年(1831)のものが13基で最も多く、この頃伊勢参宮が非常に盛んであったことがわかります。(東大阪市の説明板より)
創建は不明ですが、本殿は一間社流造柿葺で江戸時代中期の建築とみられ、また境内の鳥居に寛保元年(1741)の銘があり、拝殿前の燈篭に明和元年(1764)の銘があることから、新田が開発された後に、神社が整備されたことがわかります。
八幡三神(応神天皇、神功皇后、比売神)
なし