社伝に、正嘉二年(一二五八)九月九日、伊勢の神宮より勧請す、という鎌倉時代)今川城主吉良長氏社領三貫文の地を寄進する。
また、当村の城主鳥見源兵衛尉綱宗は武運の祈願所として社領十三石を献進す、その後城主細川左馬介守世は 濃州関孫六、兼光作の刀剣を奉納(社蔵)永禄七年(1 五六四)一向一揆の争乱により落城し三反歩を除地してみな没収せられた。明治五年十月十二日、村社に列 同四十年十月二十六日、供進指定をうける。大正四年一月十日、字社宮司の社宮司社を本社に合祀した。 昭和十九年十二月二十七日東海地震により社殿全壊、同五十五年十一月一日社殿を造営復旧した。
同五十五年十一月一日、社殿を造営復旧した。