永享10年(1438年)、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の間に確執が生じ、身の危険を感じた上杉憲実は平井城に逃れた。通説ではこの時に憲実が家臣の長尾忠房に築城させたといわれている。この後、持氏と憲実+幕府の連合軍の間で永享の乱が起きたが、憲実方が勝利した。
文正元年(1466年)に関東管領になった上杉顕定によって拡張されたという。
古くから平井城が関東管領・山内上杉氏の拠点であったかのように記す史料[2]もあるが、実際には永正9年(1512年)の永正の乱[3]もしくは大永年間(1520年代)[4]以降の拠点で、16世紀前半の短期間のものであったとみられている。
天文21年(1552年)、北条氏康に攻め落とされ、時の平井城主の関東管領上杉憲政は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに逃れた。既に周辺の上野国人勢力や憲政の馬廻まで北条に寝返っていたためである。
永禄3年(1560年)に長尾景虎によって奪回されたが、同年に景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城になった。奪回されて再び上杉本拠地となることを恐れた北条氏が、落城前に城郭を破却していたのではないかとも指摘されている。