祭神・北郷相久は常陸之介と称し、都城島津氏第十代北郷時久の長男で、資性英邁文武に長じていたが、家臣のざん言にあい天正七年(1579)八月三十日都城市庄内町金石城において、父時久の軍勢に包囲され同所にて二十有八の若さで自害した。その後時久は相久の無実を知り、これを哀れんで本社を創建し、その霊を慰めることになった。
はじめは若宮八幡と称し、妹尾重貞を祠官として祭祀をとらせ、南門に別当延寿寺を創建、西門に常徳院と称する禅門を建立し追善供養の菩堤所とした。文禄四年(1595)時久公、薩州宮ノ城に移封となり、当社も同地へ移奉した。慶長五年三月、旧領地へ復帰となり、本社もまた旧社地へ遷した。同七年北郷忠能寺社を厚く崇敬し、北門に本地院と称する密寺を建立した。慶長十三年(1608)には神祇管領吉田兼治により霊八幡と改号した。明暦元年(1655)には神祇管領吉田兼喜により、さらに兼喜大明神とした。都城二十六ヶ村の宗社として厚く崇敬され、享保十九年(1734)には正一位の神階を受けた。明治に入り兼喜神社と改称、明治七年二月村社に列した。大正五年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。
本神社は、宝殿・舞殿・拝殿・御供所で構成されていたが、天明八年(1788)に、宝殿・舞殿・拝殿(現社殿)に改築された。特に宝殿は、旧薩摩藩独自の彫刻方法(向拝柱の雲龍彫刻など)を取り入れた遺構であり、現代への社寺建築技術の移行過程を知る上で歴史的価値の高い建物である。
地元の人々には昔から「デメジンサァ」と呼ばれ親しまれている。