朝日町は古くから農業が盛んだったので由緒の古い神社には苗代神社、井後神社、移田神社など農事にちなんだ名が付けられ農業を守る神々が主として祀られた。これらは皆延喜五年(九〇五)に定められた式内社である。神領字頭尾御園(埋縄)は一石八斗の粗米を国司の手によって神宮に奉納、神官の造営祭祀の料に充たられた。しかし、明治維新以後神社の大改革が次々と行われた。まず慶応四年(一八六八)神仏分離今により社寺とも非常な打撃を蒙った。祠官、祠掌の職制を設け、又一郷一社と定め他の社は村社として郷社に付属させ、これらに入らないものを無格社とした。明治四十年から四十四年にかけて神社の合祀が行われ、神社関係の資料の散佚するものが多かった。明治四十年八月神明社祭神天照大神の境内一社と字北谷にある八幡社祭神応神天皇、字入ケ谷の山の神社祭神大山祇命の無格社二社を、村社移田神社に合祀の上移田神社と単称する事になった。明治四十一年一月井後神君と合祀に際し、面社氏子一同と数回協議して明治四十四年一月十二日を持って、柿村井後神社にが合祀の許可を得る。同年二月二十日両神社の移転合祀祭奉仕を行った。移田神社は昭和二十七年六月に合祀先から旧地に復帰し旧拝殿の北側に接して新しい拝殿が建てられ、昭和四十二年拝殿の広築を行い現在に至った。それを平成十一年から十三年に掛けて土地所有者から譲渡を受け、平成十二年神宮庁に宗教法人として届出し、平成十五年(二〇〇三)移田神社、神殿、拝股が造営建築されました。