いかるがじんじゃ
三重県四日市市羽津戊523
垂仁天皇一八年、皇女倭姫命が天照大神の大宮処を求めて桑名野代宮より鈴鹿忍山宮へ御遷幸の途次節、当地に御駐輿された跡であり額田部の子孫は天津彦根命の孫、意富伊我都命の遠孫が天照大御神荒魂を奉斎したと伝..
垂仁天皇一八年、皇女倭姫命が天照大神の大宮処を求めて桑名野代宮より鈴鹿忍山宮へ御遷幸の途次節、当地に御駐輿された跡であり額田部の子孫は天津彦根命の孫、意富伊我都命の遠孫が天照大御神荒魂を奉斎したと伝える。また、大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子との間に起った皇位継承の争い」、壬申の乱(672年)の時、大海人皇子は白鳳元年に当地、朝明郡迹太川より神宮を御遥拝戦勝祈願された故事によりより、訳230年後、天武天皇の事跡を偲んで額突山の麓に天武天皇社が創建され、山頂には「天武天皇神宮御遥拝所」と刻まれた石碑が残っている。『神鳳鈔』には「鵤ノ御厨三丁」とあり神宮と関わりの深かったことが知られる。天延二年(九七四)、叡山の僧良源が船木氏の良見に聘され下向、鵤村に安居し後 帰山するが、弟覚鎮が当地に斑鳩山大善寺を創建し、別当となったと伝える。五世空源の代に、信長の兵災に罹り、迦藍、神社の古文書等を悉く焼失。明治末葉、無格社天武天皇社(天武天皇)、ほか五社を合祀した。
《主》天照大御神荒魂 《合》大年神 大山祇神 天武天皇 不詳一座
式内社(小)論社 伊勢國朝明郡 伊賀留我神社
南伊賀留我神社
10月16日
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