当神社は、旧幕府時代午頭王社と称したが、明治三年能多神社と改称(野田御園七反)と「神鳳抄」にある。明治四十年海蔵村大字野田里中無格社管原神社を同大字字新屋敷村社能多神社へ合祀の上社名を野田神社と改称した。管原神社は、野田半次郎氏(徳丸氏が野田と改称)がその主人三井家から天満天神の画像を頂き、村内長久繁栄のため、明治五年六月社祠を造営し、これを奉祀したもので古くは徳丸氏の個人の持社であった。氏子奉賛会のお世話により、年間七回の祭礼が営まれ、七月二十五日の天神祭では、子供たちが「上手になりますように!りこうになりますように」と願い、行燈に絵や字を書き奉納、境内一面に飾ります。夜には灯りがつき皆があつまり楽しみます。また、十月十日の例祭では子どもみこしが町中を練り歩き賑やかな一日となります。令和二年四月氏神さまを敬う志篤い氏子の皆様の努力が実り、念願の野田神社の宗教法人登記がされました。