神社としての由緒は詳らかではないが、飛龍三社大権現と呼ばれ、祈願所として藩主より寄進を受け、真言宗東明寺の僧が奉祀してきた。佐土原藩の修験僧野田泉光院成亮が、「日本九峰修業日記」で、文化九年(一八一二)滝山大権現に参詣したことを記し、大権現のほか観音堂、護摩堂、東明寺があったという。「高鍋藩寺社帳」は応安元年(一三六八)法印快盛開山と記し、本尊愛染明王、寺領一石五斗と記録され、真言宗に属していた。
明治維新後の廃仏菓釈と神社統合で、明治六年五月、都井神社に遷座合祀された。しかし、多年の霊地が荒れることを恐れた地元氏子の強い請願で明治十五年九月、復社が許可され、社殿を改築、社名を名谷神社と改めた。明治三十九年神供幣吊料供進社に指定された。
本社鎮座の場所は、滝山と呼ばれており、『日向地名録』でも、「車明寺淳布、岩岡より直下する二丈五尺、その壮観」と述べており、その水質の清く澄んだ霊水を讃えて、持ち帰って病人に与えたり、参籠するものなど、遠近の賽客が絶えない。地元でも、神社が山間にあって参詣に不便なため、滝山名谷参拝道は大正十三年村民の奉仕で完成したが、社名も、下流の名谷の名から、御滝山にふさわしい滝山神社に改称願を昭和十一年八月、知事に出願したが、そのままになっている。
なお『宮崎県史蹟調査第六輯』によると、「名谷観音堂の鰐口として、鋼製径七寸、厚さ二寸五分、八幡宮浜中云々、文明二年の銘がある」と記録、大納谷にあった八幡社のものが直接か、または飛龍大権現を経て観音堂に移されたものとみている。鰐口は金鼓ともいい、もともと寺院にあったものが、秋月領福島では神仏混合で、数多くの宮に懸けられていたがここだけに現存していた。
なお祭神について『日向地誌』では明治五年、都井神社に合祀された際、水波売命としている。