じけいいなりじんじゃ
埼玉県さいたま市浦和区常磐1-5-9
稲荷社(常盤1-5-19) 中山道の三番目の宿場であった浦和宿は、南北一〇町四二間(約一一ハ五・六メートル)の規模を持ち、北から上町・仲町・下町の三つに分かれていた。当社は、そのうちの上町の人々に..
稲荷社(常盤1-5-19) 中山道の三番目の宿場であった浦和宿は、南北一〇町四二間(約一一ハ五・六メートル)の規模を持ち、北から上町・仲町・下町の三つに分かれていた。当社は、そのうちの上町の人々によって祀られていた神社で、当初は単に稲荷社と称していたが、後に慈恵の文字を冠し、慈恵稲荷神社と呼ばれるようになった。慈恵の文字を冠するようになった時期は定かではないが、『明細帳』では「慈恵」の文字が後で加筆されていること、「慈恵稲荷社」の文字を刻んだ社号額や社号標が大正十四年に奉納されていることから考えると、同年の境内整備や翌年の本殿改築・拝殿新築といった事業を機に改称したものと思われる。 一方『風土記稿』浦和宿の項を見ると、「稲荷社三宇一は成就院持、二は村民持」とある。そのうちの「成就院持」の稲荷社が当社のことであり、「村民持」の稲荷社は常盤三丁目にある笹岡大稲荷・笹岡小稲荷のことと思われる。当社の北に隣接する成就院は、玉蔵院の末寺に当たる真言宗の寺で、通称を「上寺」といい、明治四年に一旦廃寺になったが、平成二年に復興された。また、当社の境内と成就院の大門の所には、各々大きな樅の木があり、中山道を通る人から見ると、それが一本にも二本にも見えたという。そこで、人々は「一本だ、いや二本だ」と言い争ったため、この樅の木は「争い樅の木」として知られていたが、明治九年九月の台風で倒れてしまった。(「埼玉の神社」より)
創建年代は不詳ですが、浦和宿上町の人々によって、祀られていた社と言われます。
倉稲魂命
不詳
例祭…二月初午 夏祭り…7月20日前後の日曜日
JR宇都宮線・高崎線・京浜東北線「浦和駅」徒歩7分
10分
無し