飛鳥時代の推古天皇の御代に聖徳太子が来遊し国家鎮護を祈願し数十の堂宇を建立し、山の形が竜に似ていることから福龍山と名付けられましたが、後に誤って福瀧山と書かれ、山号になったそうです
平安時代の弘仁年間に弘法大師が巡錫し朽廃した堂宇を嘆き、諸堂数十棟の柱千本を集めて建立し千柱寺と名付け、自らが阿弥陀、観音、勢至の尊像を彫刻し安置したそうです
安土桃山時代の文禄年間に火災に遭いましたが、この尊像は災難を免れ、現在に伝わっているそうです
元は現在地より北西の山上、寺屋敷という地にありましたが、室町時代の元亀年間に住職宥印法印によって現在地に移転され、安土桃山時代の慶長年間には小堀政一(遠州)代官が参詣し、その由緒に感じ田畑山林を寄進し、以来、備中松山城主は代々、旧例によって寺所有地の税を免じたそうです
現在の本堂は江戸時代の文政10年に建立されたそうです
宥印法印から後9世の法印が続きましたが、その後無住となり、慶応2年に玉本大和尚が現在の庫裡を建立し中興初代となっているそうです
2代福滝智明和尚は明治30年に本堂西に金毘羅社を建立し、3代佐々木快伝住職は周囲の山に福瀧山四国八十八ヶ所霊場を開創したそうです