さぐりてんじんじゃ
京都府綴喜郡宇治田原町岩山上田13
雙栗天神社は宇治田原町大字岩山に鎮座し、祭神は、天穂日尊(あめのほひのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)・大蔵命(神)(おおとしのみこと)で、のちに菅原道真を合祀しました。なお、末社として戸..
雙栗天神社は宇治田原町大字岩山に鎮座し、祭神は、天穂日尊(あめのほひのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)・大蔵命(神)(おおとしのみこと)で、のちに菅原道真を合祀しました。なお、末社として戸隠社、稲荷社、白山社、山王社(日吉神社)、皇大神宮、貴船社を祀っています。 「社伝記」によると、宣化天皇3年(538)9月7日、山城国東県綴喜郡雙栗田原郷の大岩本の頂に瑞祥があって、霊神が岩上に降り、座して光明を放たれたと伝えられています。その時当郷の住人、雙栗忌寸宿祢、和邇部茨彦がこの瑞祥を見て、その大岩の下に宮柱を建て、斎き祀ったといわれ、ここから岩本の地名も起こったとされています。現在も、雙栗天神社の背後の山(大岩獄という)を200m程登った処に7~8m位もある大岩石が在り、岩の下に一祠が祀られており、これが奥の院と称されています。 光仁天皇の宝亀元年(770)6月の勅命によって同年9月9日、荒木の里大宮の地に三神が遷宮され、荒木の産土神として大宮の社を称しました。 平治元年(1159)12月8日、平治の乱が起こり、この戦のために岩本の本宮、大宮神社をはじめ荒木村の全部、山滝寺、雙栗寺、岩本のことごとくが炎上烏有に帰しました。その後、建久4年(1193)に本社を造営しますが、桃園天皇宝暦11年(1761)2月4日、村内より出火(岩本の大火)し、社殿、古記録一切が焼失。また、孝明天皇の嘉永元年(1848)4月4日、社殿が焼失するが、同年5月再建。この再建は岩本が生んだ名匠柴田新八郎が行いました。 社殿の構造は一間流れ造りで前面に向拝がつき、極力控えめにした清楚堅実な造りの中に、柱、梁、飾り付けは桃山期あるいはそれ以前を思わせます。
天穂日尊(あめのほひのみこと) 事代主命(ことしろぬしのみこと) 大蔵命(神)(おおとしのみこと)
嘉永元年(1848)4月4日に焼失後、同年5月に当郷出身の大工・柴田新八郎により再建された、一間社流造。
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