平安時代の天承元年に氏神として矢ノ鼻に創建され、貞観5年の備前国神名帳に天石門別保布羅神社と記載されている
鎌倉時代の建久年間に持命院の清長法師によって現在地に遷座して天形星神社と改称し、持命院が別当寺となった
承久の乱によって児島に下向された後鳥羽上皇の皇子覚仁法親王、頼仁親王に崇敬され、延応元年に上皇が崩御されると覚仁法親王、頼仁親王によって上皇の供養塔が社殿の前に建立され積塔院と称された
室町時代の大永年間に火災のため焼失し、その後再建された
明治3年に神仏分離により旧称に複し、積塔院は石洞神社と改称して摂社になった
明治6年に郷社に列し、昭和2年に神饌幣帛料供進神社に指定された