しもほうざわかったみねじんじゃ
山形県山形市下宝沢1710-1
当時、宝沢に井上太郎大夫という農夫あり、子なく天に祈る。その妻、一夜、一僧胎中に入るを夢み、男子を生む。朱鳥八年(692年)十月十八日のことなり。乙鶴と名づく。乙鶴長じて、才徳人に優れ、和銅五年(7..
当時、宝沢に井上太郎大夫という農夫あり、子なく天に祈る。その妻、一夜、一僧胎中に入るを夢み、男子を生む。朱鳥八年(692年)十月十八日のことなり。乙鶴と名づく。乙鶴長じて、才徳人に優れ、和銅五年(712年)、19歳の春三月山伏となり、名を覚山と改め、諸国の名山霊地を巡り修行を重ね、吉野金峯山に至り蔵王権現を拝す。霊夢に、蔵王の霊山あるを知り、その山の中興を志し、帰国して登山の道路を開き、信者の利便を図る。天平年中(729~749)、三年の早魃あり、覚山国主の請を応じ、祈祷して雨を降らせ、五穀実りしことあり、麓に当社を建立し、萬福山と号す。これ当社蔵王大権現の創始にして、覚山は別当三乗院の原祖なり。 蔵王大権現は、刈田嶺神社とも称し、承和十一年(844年)、調停より従五位下に叙され、貞観十一年(869年)、従四位下に昇叙せらる。降って延文元年(1356年) 山形城主斯波兼頼、前殿を創建、黒印壱石壱斗寄進。慶長年間(1596~1615年)、最上義光、再建。寛永十一年(1634年)、鳥居忠政、改築。慶安元年(1648年)、徳川家光より宝沢四社へ先規の通り、蔵王社領として三石八斗を寄進せらる。