元慶2年(878年)出羽国(今の秋田県)に反乱がおきて、鎮守将軍小野春風、副将軍藤原保則が軍をひきつれて治めました。藤原保則は出羽守となって秋田城を再建、この地方を平定しましたが秋田に向かう途中、五十川にしばらく滞在しました。身の回りの世話をしたおすみという女性の家に滞在したといわれて、その家はおすみ屋敷と呼ばれました。
ここにはもともと大日如来が祀られていましたが、人々は藤原保則の徳を募って愛染大明王の生まれ変わりとして一緒に祀りました。それが蘊安宮(うんなんぐう)といわれています。
その後天正10年(1582年)社殿を改築、正徳4年(1714年)本堂改築、また文政10年(1827年)には大々的な再建が行われました。この時は3年前から寄付を集め、他村からも寄付があり、たいそう立派なお堂が出来上がりました。当時米沢藩では、質素な生活を奨励していました。立派な社殿を建てたのは不届きである、壊して元のお堂にするようになどと言われましたが、代官のとりなしで無事に済みました。
別当は初め高橋家でしたが、正寿院になりました。明治政府の神仏分離令によって大日如来、愛染明王は正寿院に移され、藤原保則だけを祀る神社となりましたが、その後、熊野神社も合祀され、神主も新しく決まりました。
本堂の彫刻は中野又惣の作で見事なものです。平吹市之丞作の獅子頭とともに大事にしたいものです。
平成8年五十川地区、関東致芳会、保則公の子孫ともいわれている東京都清瀬市の高家久子ほか広く寄付を集めて屋根のふき替え、宝蔵改築、本堂彫刻の保護、稲荷神社の改築など立派に整備されました。
また、御神木の大杉は、樹齢600年と推定され、根回り12m、高さ30mほどあります。長井市の天然記念物に指定されており、長井市で一番太いと言われています。