除地、四畝二歩、村の北にあり、日蓮宗、荏原郡池上本門寺末、感應山と號す、本堂七間に七間南向なり、本尊三寶を安す、當寺は昔荏原郡峰村にあり、此地へ引移せし由来は、もとの地頭白井平右衛門と云もの罪あるにより、正徳四年其家禄没収せられしとき、里正武左衛門地頭の遺託をうけ、先祖菩提のために願望をおこし、享保三年當寺を峯村より移せりと云、中興開基は本山二十五世日顗隠居の後ここに住し、寶暦三年に寂せり。
(嶺村)本立寺蹟
釈護子八幡社の邊なり。昔は除地7畝ばかりありて、法華宗当徳山と号せしに、当寺の先住日立年老て本覚寺へ隠居せり。其頃本覚寺は続の庵なりしを、日立一寺に取建しかば、夫より本覚寺は盛んになり、当寺は衰微せしゆへ、本覚寺より兼住せり。時に享保15年10月、当寺を都筑郡神奈川領今宿村へ移さんことを願ひ上げてより、当村の除地7畝を返し奉り、今は畑となれり。なを彼の村の條下に出せり。 (新編武蔵風土記稿より)