慶安2 年(1649 年)に善寳寺14世陽室清学大和尚の隠居処としてこの地に草庵が建立されたのがはじまりとされる。元禄元年(1688 年)には現在の場所に本堂が建立され村人の信仰の場となった。以降3 度村の大火により焼失するも地域檀信徒の厚い信仰と協力により今日まで伽藍が護られてきた。当時浜中村の一番東側の林に建立したので山号は「東林山」となった。 江戸時代末期から明治初め頃の近代史として「善寳寺29世大令宗覺和尚が總持寺に向かう途中葡萄峠にて追いはぎ(盗賊)に遭う。その際、和尚の態度・説諭に心改めその賊弟子となる。後、弟子(竹園竿頭和尚)は善寳寺裏山の材木などを使い正常院及び石船神社も再建する。(※石船神社の山号額「葛岡山」は大令和尚の揮毫)再建後、当院に専属(監院)すると村人の砂防植林の苦心に同情し、砂防工事に着手・率先して貢献した。」と言い伝えが残る。神仏分離令(廃仏毀釈)によって分断されたが今でも石船神社には卍の紋が、当院須弥壇には三つ巴の紋が入っているのは古来の関係性を物語っている。(※当時の観音堂(現岩船神社)の屋根上にあった大擬宝珠は浜中資料館に所蔵されている。) 火災焼失の際、旧庄内藩藩主(伯爵)・酒井忠篤に尽力を仰ぎ鶴岡城の瓦等を譲り受け移築、現在の本堂となる。平成28年の大改修工事まで当院本堂は酒井家の紋(片喰紋)が入った赤い瓦であった。