昭和40年9月、尼崎市田能(たの)字中ノ坪(現在の田能6丁目)一帯で行われていた尼崎・伊丹・西宮三市共同による工業用水園田配水場の建設工事中に大量の弥生土器が発見されたことから、この場所に大規模な弥生時代の遺跡があると推定され、すぐさま協議が行われました。
しかし、当時の日本は高度経済成長の真っ只中で、配水場建設は阪神工業地帯に欠かすことのできない一大プロジェクトだったため、また、当時の尼崎市は工業用水としての地下水の使用による地盤沈下に悩まされていたため、工事は緊急性が高いものでした。
それらの事情から、工事を中断して発掘調査を行うことはできず、工事車両に追われながらの緊急調査が10月から開始されました。
調査は、「ブルドーザーに追い立てられながら‥‥」「土器がバリバリと壊されていく」などすさまじい中で、寝る間も惜しんで行われました。