きのもとじぞうそん このもとでら(もくげんじ)
兵庫県西宮市名塩木之元21-1
聖徳太子は鎮護国家のため、1木で3体の地蔵尊を刻み3か所に納められましたが、その1体が名塩の木元寺(このもとでら)にある木元地蔵尊であると伝えられています。なお、他の2体は紀伊の木ノ本(きのもと)、..
聖徳太子は鎮護国家のため、1木で3体の地蔵尊を刻み3か所に納められましたが、その1体が名塩の木元寺(このもとでら)にある木元地蔵尊であると伝えられています。なお、他の2体は紀伊の木ノ本(きのもと)、近江の木之本(きのもと) 地蔵尊です。 のち、室町時代の摂津、播磨、備前美作を支配する守護大名であった赤松則村円心公が勝軍地蔵として伽藍をここに創建しました。 その曾孫の赤松播磨守満政は、六代将軍足利義教に近習として仕え、その信任厚く歌道にも秀れた文武両道の人でしたが、新たに台頭してきた山名持豊(後の応仁の乱の山名宗全)に領地をねらわれて、戦いに敗れてこの生瀬の地に逃れ、木元の山中で一族郎党124人と共に、悲憤の自殺をとげたのです。文安2(1445)年3月のことです。境内に残る十三重の塔は満政父子の墓です。また、一石五輪の小塔は一族郎党の墓で、現在は3基のみ残っています。この両塔は室町時代の墓石形式をそなえていると言われています。 この後、天正年間(1573~91)、同寺は火災にあいましたが、その際、火の中から一部を焼いた地蔵尊が運び出されました。それが現在の木元地蔵尊で、焼地蔵とも称されています。 また、次のような伝説もあります。昔この地に住んでいた川辺音次という若い百姓夫婦が家に赤ん坊を残して裏山へ薪をとりに行きました。ふとわが家の方を見ると煙が立ちのぼっています。夫婦は山を駆け下り家に飛び込みました。すると日ごろ信心しているこのお地蔵さんが、激しい火の中、衣の袖で赤ん坊にふりかかる炎を懸命に払っておられました。おかげで赤ん坊はやけどひとつせずに助けられましたが、お地蔵様はやけどを負われました。それが今も地蔵尊の頬と左の衣に残っている傷跡だと言われています。こうしたことから火伏地蔵とも呼ばれて信仰されています。 ~西宮市教育委員会より~
天徳山
西山浄土宗
室町時代
地蔵菩薩
赤松円心則村
顕空教住上人
阪急バス木ノ元下車すぐ JR西宮名塩駅 から徒歩約10分
無料
有り