青苧は江戸時代の庶民の衣料原料でした。土の肥えた畑を選び、八十八夜頃(五月一日、二日)に種を蒔き、お盆に刈りとり、糸にして売り出しました。奈良晒(さらし)・越後縮(ちぢみ)・近江蚊帳(かや)は特産物として全国に名高いが、その原料は最上の青苧でした。白鷹山地や月布川流域それに五百川地方が良質な青苧を産出しましたが、河北では両所・ 天満・白山堂から根際・沢畑・弥勒寺・北谷地の岩木・吉田・新吉田など、出羽山地の麓に青苧畑が広がっていました。
青苧権現の石碑は、これらの村々の青苧栽培農家が、風水害・虫害にあうことなく豊作であることを願って建立したもので、草木塔の一種といってもよい・青苧大権現・青麻宮・青麻三光宮などと自然石に刻まれ社寺の境内に祀られていますが、岩木の青苧権現は観音様の前のお堂の中に納まっています。特に大切にされたものであると思われます。
江戸時代、実生活に有用な草木を三草四木と呼びました。三草は麻(青苧)・紅花・藍、四木は桑・茶・楮(こうぞ)・漆でした。
これらはいずれも商品作物として農家に現金収入をもたらしましたが、河北地方で青苧商人として知られたのは沢畑の宇野仁左衛門、横町の平泉長三郎らで、二人は共同で荷問屋を営み奈良の小手屋長右衛門と取り引きを行っていました。