みょうけんいん
山形県山形市妙見寺1619
当山は源九郎判官義経公の臣下である亀井六郎重清が、文治五年(1189)奥州衣川に於いて主従没落の際、妻板垣氏とその幼児源次重基に亀井家陣中守本尊妙見菩薩および家系図と義経公感状を与えて山原村に落ち延..
当山は源九郎判官義経公の臣下である亀井六郎重清が、文治五年(1189)奥州衣川に於いて主従没落の際、妻板垣氏とその幼児源次重基に亀井家陣中守本尊妙見菩薩および家系図と義経公感状を与えて山原村に落ち延びさせ、妙見菩薩を文殊山々頂に安置したに始まると伝える。
文殊山は山頂の地狭く祭祀不便なので、延文元年(1356)現今の地、妙見山に堂宇を建立した。
その後、重基五代の孫帯刀重次に至り、出羽鎮守府将軍斯波兼頼公、山形城に入府するを以て家系図ならびに義経公感状を示し、亀井六郎の兄鈴木三郎の姓を用いて鈴木重次と称し、兼頼公の臣下となり弐百町を賜った。
後四代鈴木備後重尚は最上義光公の命に依り出陣し奥州二本松に於て戦死し、其の□数馬重政もっぱら妙見菩薩に奉仕するに及び、義光公より妙見堂領として拾七石を寄進され、妙見太夫として別当となった。
元和八年(1615)最上家没落後、徳川家依りの朱印地となった。
妙見太夫重政は深く佛法に帰依し、出家して宥山法師となり、京都醍醐寺三宝院の直系、妙見寺を開創した。
以前この辺りは山原村と称していたが、この寺ができてから村人は自然、妙見寺の邑というようになり、寛延元年(1748)妙見寺を妙見院と改称し現今に至る。
妙見菩薩は北辰菩薩、妙見尊星王ともいい北斗の主星である北辰のことで、国土を守り貧窮を救い一切諸願を満足せしむる菩薩であるといわれる。
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