たきわきむらせきみどう
愛知県豊田市滝脇町石御堂地内
天保7年(1836)、三河国加茂郡では凶作や米価高騰をきっかけとして年貢軽減などを求める一揆が勃発します。 下河内村(今の愛知県豊田市)の辰蔵を頭取として、滝脇村(同市)の石御堂に集まった農民らが..
天保7年(1836)、三河国加茂郡では凶作や米価高騰をきっかけとして年貢軽減などを求める一揆が勃発します。 下河内村(今の愛知県豊田市)の辰蔵を頭取として、滝脇村(同市)の石御堂に集まった農民らが鎌や斧を手に取り竹筒を吹き鳴らして気勢を上げ、一揆に参加しなかった村の庄屋の屋敷、米屋、酒屋などを次々に打ち壊しながら、松平一帯を巻き込んで足助を経て挙母城下に押し寄せ、参加人数は1万人以上となりました。 この一揆は後に「加茂一揆」「鴨騒動」などと呼ばれますが、役人と交渉した際に年貢率を妥協した辰蔵自身の屋敷も打ち壊しに遭うなど終盤に入ると統制が乱れた上、挙母城下では藩兵の出動で鉄砲を撃ちかけられ死傷者が出たことから潰走し、頭取の辰蔵らは捕らえられてしまいます。 辰蔵は江戸に送られ、獄門の判決が出されるものの、処刑される以前に牢死し、他にも遠島や過料など多数が処罰を受けました。 国学者の渡辺政香が記した『鴨の騒立』では、この一揆の目的を「世直し」だとしており、現在も辰蔵の墓や石御堂が現地に残っています。