当宮は、天喜五年(1058年)源頼義が後冷泉天皇の勅を奉じて創建され六条八幡とも左女井八幡とも言われました。
平安時代は五条大路までが市街地で六条の地は堀川館をはじめ当町に頼義・義家の館、その東には後に義経が居を構えるなど、長く源氏の邸宅があったところとして著名で「十芥抄」(1540年代)には「八幡若宮義家宅」の書入れがあり「古事談」にも「六条若宮はかって源頼義が邸宅の家向に構えた堂に始まる」とあります。また、頼義の誕生水と称される井戸の伝承地があると記されています(義家誕生1041年)。「五妻鏡(1190年代)」によると文治三年(1187年)正月十五日六条以南、西洞院以東の壱町の左女牛御池を社地として六条若宮に寄進されたとあります。
そもそも左女牛(さめごい)とは現在の醒ヶ井通りのことではなく平安京条坊図によれば北から五条大路(現松原通)、樋口小路(現万寿寺通)、六条坊門小路(元五条通)揚梅小路、六条大路、左女牛小路(現花屋町通)、七条坊門小路(現正面通)、北小路、七条大路とあり寄進された壱町とは正しく若宮八幡宮を中心とした壱区画であります。
以来、源頼朝からも格別の崇敬を得、文治三年六月十八日には放生会を始行すべき沙汰があり、同年八月十五日に鎌倉八幡宮と共に放生会が行われたのが今日の祭事の始まりであります。
さらに室町時代に足利将軍家の崇敬を得てますます栄え応永十七年(1410年)八月、四代将軍義持がお参りした時の様子を伝える「義持社参絵巻」には本殿のほか公文所、楼門、三重塔などが見え壮麗な殿舎を彷彿させられるのですが惜しくも応仁の乱(1470年)で焼失、その後秀吉の京都改造(短冊形町割・寺院街形成・御土居築造)に際し、天正十二年(1584年)当時の御旅所のあった東山(移され天正十六年には方広寺の北へさらに慶長十年(1605年)現在の五条坂(移って今日に至っているのですが東遷の後も町民の信仰あつく創建以来の宮を守り、まつりごとを斎行し、年々盛んになってきているのであります。
若宮町
(境内の御由緒より)