吉田大八守隆公は藩の家老荘左衛門 守寛の子で性豪胆体軀大きく才知才能に富み よく勉学に励み、十五歳の時藩士の給士とな る。二十三歳で上京し江戸や長崎で儒学や程 朱の学問を修め、軍学兵法にも傾注される。 文久二年、二十七歳の時、軍事、 武具奉行に 挙げられ、又天童藩校養正館第三代督学長に 任ぜられる。指導者として藩政や農民経世に 力を注ぎ、養蚕養鯰業、殊に将棋駒製造等に 着手された優れた為政者でもある。慶応三年、 天童藩主織田信学は奥羽鎮撫使の先導役を給 わったので名代として吉田大八を任命する。
慶応四年四月、笹谷峠で出迎え、上山山形天童へと着陣する。 奥羽鎮撫総督府が本陣を天 童に置くに及び大八は庄内藩との武力衝突を極力避けよう尽力したがその努力空しく、同二十六日の庄内軍の進撃に会い、避難、厳 戒体制で応じたが、同二十七日、砲撃戦で居 城をはじめ領内に放火され、民家一戸残らず 焼失する。同五月三日、奥羽越列藩同盟は先 導役を務めた吉田大八の引き渡しを強要した ので天童藩はやむを得ず大人に「死を賜う」 とし、六月十八日観月庵で切腹自刃する。 時 に享年三十七歳。維新後の明治二年十月総督 府は深く哀惜の意を表し、明治天皇は叡慮に より御下賜金を賜われる。三年十月天童藩知 事織田信敏は神祇官に上申し同年四月十七日 神号素道軒守隆祠の宣命を賜わる。 そして城 山の建勲神社領内に社殿をつくる。八年十月素道軒祠を官祭招魂社と改称、十一年戊辰の 役の戦死者海野彦吉命外一二柱を合祀する。
大正七年四月、日清日露両戦の英霊を合祀、 昭和七年二月、満州事変の英霊を合祀、 十四 年三月、天童護国神社と改称する。 十六年三 月には支那事変の英霊を、二十年六月、 大東 亜戦争の英霊を合祀する。四十年六月には神 社奉賛会を設立、七月二十五日、天童市全域 英霊一二七八柱を改めて合祀し臨時大祭を 斎行、平成六年十月に屋根替の修復改築を行う。