たかなべおおとしじんじゃ
宮崎県児湯郡高鍋町持田3762-1
高鍋町持田の大年にある「大年神社」の祭神は「稲田姫命」。スサノオノミコトの妹で、同町蚊口の鵜戸神社の由緒では、「大年神」はスサノオノミコトの子神である。五穀豊穣(ほうじょう)、農耕の守護神で、中世に..
高鍋町持田の大年にある「大年神社」の祭神は「稲田姫命」。スサノオノミコトの妹で、同町蚊口の鵜戸神社の由緒では、「大年神」はスサノオノミコトの子神である。五穀豊穣(ほうじょう)、農耕の守護神で、中世には領主伊東氏から田8反と屋敷が与えられていた。 また同神は、木城町比木の比木神(五社大明神)と縁が深く、同社の大祭に先立って「大年下り」が大年神社境内に祭られた「比木大神」を中心に行われる。比木社のご神体「御袋神」の浜下りの神事である。 高鍋町鴫野(しぎの)の浜の真砂を持ち「上り」、比木社の大祭は始まる。流布している「比木大明神本縁」(宝暦5年、加賀美光章編)をさかのぼる59年前の元禄9(1696)年、新田村(新富町)の神官井上良光(よしてる)が書写した「旧記」は次のように述べている。 百済の王は「貞家」(ていか)と言い、王位に21年間あって皇太子に王位を譲った。皇太子は福智王で、王位について3年で国に内乱が起こり、日本に逃れた。 天平勝宝8(756)年9月、安芸国(広島県)の厳島に着き、同10年秋、日向国児湯郡嘉口(かぐち)の港に入った。そのとき、ぬれた衣を乾かしたところを「もひろげ」、馬具を干したところを「くらかけ」という。 福智王は住むところを決めるため珠玉を投げた。18里も飛び、そこを「火棄」(ひき)と名付けた。 同じころ、貞家王は臼杵郡金ケ浜に着く。ここから78里の山奥に住居を構える。百済から追ってきた賊と坪谷伊佐賀坂(東郷町)で戦いとなったが、福智王が火棄から駆け付け、賊を滅ぼした。 この戦いで食料が尽き、王と兵士が困っていたが、神門の武将・益見太郎が鹿(しし)を狩り、助ける。このことから、神門の祭りには捕れた獲物を神に供える神狩(みかり)がある。戦死した二男の皇子を伊佐賀大明神として祭り、流れ矢に当たって死去した貞家王の墓を「塚原」という。神門大明神がこれ。 福智王は火棄に火棄大明神として祭られた。火棄を比木と改めたのは仁寿2(852)年。福智王の母が「大年大明神」で、陵は鴫野にある。 このように比木神社の4つの大祭は、比木神が「大年神」と「神門神」という農耕世界と狩猟世界の2つの守護神を結ぶ神であることを示している。
比木神社祭神 福智王の母である禎嘉王妃 之伎野妃(しぎのひ)の墓
大年神(おおとしのかみ) 稲田姫命(いなだひめのみこと) 御年神(みとしのかみ) 若年神(わかとしのかみ) 禎嘉王妃(ていかおうひ)
村社
本殿兼拝殿(切妻造)4坪
十一月四日