ほうぞうじ
栃木県日光市大桑町270
法蔵寺は、正式には「真命山 心光院 法蔵寺」といいます。宗旨は浄土宗です。 開創は、康応元年(1389年)10月です。日本国を二分した南北朝の戦いの折、南朝方に味方して敗れた「新田義貞公」の孫(..
法蔵寺は、正式には「真命山 心光院 法蔵寺」といいます。宗旨は浄土宗です。 開創は、康応元年(1389年)10月です。日本国を二分した南北朝の戦いの折、南朝方に味方して敗れた「新田義貞公」の孫(義宗の子)良徳という方が、一族の菩提を弔うために仏門に帰依し僧侶となり、はるかに下向して下野国倉ヶ崎村(現在の日光市倉ヶ崎)に寺院「心光院」を建立したのが始まりと伝えられます。
良徳上人は、開山間もない明徳5年(1394年)5月に遷化されました。法名「幽蓮社玄譽上人良徳大和尚」。 それ以降、歴代住職は、広い地域の振興を集め、倉ヶ崎の山の中腹に開かれた寺を護ってきました。ちなみに天正年間(1580年代)心光院近くに倉ヶ崎城がありました。
江戸時代に入り、第9代勤譽曄運(ごんよよううん)上人の時、徳川御三家の本陣が置かれ、格式と賑わいを見せていた宿場町、大桑町(現在地)にお寺が移されました。高台に位置されたことから、仏の加護が徳川家と地域の人々に覆うことを願ったと伝えられます。この時、名を正式に「真命山 心光院 法蔵寺」としました。正保2年(1645年)6月でした。
当時の法蔵寺は、七堂伽藍(しちどうがらん)といわれる広大な境内と数々の堂宇が並ぶ壮大な寺でした。下寺(したでら=末寺:支配下にあった寺)は20ヶ寺を数えるほどの勢力でした。現在法蔵寺の檀信徒が広範囲に広がっているのはその為です。 しかし、明治元年(1868年)の戊辰戦争の折、大桑町周辺はその戦火をうけ、灰燼と帰しました。法蔵寺も、その堅強な堂宇と地の利を生かされることを恐れた官軍により、火をつけられました。歴史的大改修を終えたばかり、落慶の3日後でした。 幸い、ご本尊様(阿弥陀如来立像)や歴代住職の位牌、徳川家の位牌、過去帳、霊験ある仏菩薩像など持ち出すことができたので、今にその信仰を伝えることができました。
長年、仮本堂のままでしたが、昭和56年(1981年)、宗祖法然上人生誕850年を記念し、住職の勧進と檀信徒の渾身の総力により現在の本堂が完成しました。まさに法蔵寺が復興の第1歩を踏み出すことができたのでした。 そして28代住職(現住職)は仏法を伝えるための客殿(きゃくでん=集会会館)や鐘楼(しょうろう=釣り鐘堂)を、厳しい時代にもかかわらず、檀信徒の理解と協力を得て整備しました。 法蔵寺の山門は「朱(しゅ)」に彩られた赤門です。そしてこの門は、明治初期の戊辰戦争で焼け残った当山唯一の江戸時代建造物でもあります。昔、赤門の許される寺院には、寺格(じかく=お寺の格式)が必要でした。法蔵寺は数々の下寺(末寺)を持つ本寺であり、また、毎年11月に今も営まれている「十日十夜法要」が特別に許された寺であり、その格式があることを、この赤門は物語っています。
赤門の寺 法蔵寺です。 開創は、康応元年(1389年)10月です。日本国を二分した南北朝の戦いの折、南朝方に味方して敗れた「新田義貞公」の孫(義宗の子)良徳という方が、一族の菩提を弔うために仏門に帰依し、下野国倉ヶ崎村(現在の日光市...
真命山
心光院
浄土宗
康応元年(1389年)
新田義貞の孫良徳
赤門の寺
法蔵寺のいとひば(日光市天然記念物)
東武日光線大桑駅下車徒歩15分 JR今市駅下車、鬼怒川温泉駅方面バス「上大桑」下車徒歩5分 日光宇都宮有料道路 今市IC出口(又は日光街道119号線、旧今市市内春日町交差点を鬼怒川方面に) →国道121号線、鬼怒川温泉方面に →倉ヶ崎新田交差点を左折 →道なりに日光杉並木を抜ける →突き当たりのたばこ屋を左折 →法蔵寺の看板あり
有り