こうげんいん
埼玉県秩父郡小鹿野町飯田840
光源院は、万松山と号し、甲州(山梨県)山梨郡落合の永昌院(曹洞宗)の末寺で、永昌院五世の敬翁性遵が開山しました。 また、小沢口(両神村)に移住した武田家重臣逸見義綱(逸見氏は武田氏の一族と伝えられ..
光源院は、万松山と号し、甲州(山梨県)山梨郡落合の永昌院(曹洞宗)の末寺で、永昌院五世の敬翁性遵が開山しました。 また、小沢口(両神村)に移住した武田家重臣逸見義綱(逸見氏は武田氏の一族と伝えられている)が開基した寺と伝えられています。 光源院には、「武田の高札」とよばれる古文書が残されています。武田の軍勢が、「高源院(光源院)において、乱妨・狼藉を禁じ、これに背いた者を罪科に処する」ということを記した掟書きです。永禄13(1570)年2月28日の日付と、武田家重臣山県三郎兵衛の名が記され、二重円の中に龍を描く武田家の朱印が押されています。 戦国時代の三山郷(現在の小鹿野町河原沢・三山・飯田地区と考えられる)は、甲斐の武田信玄と小田原の北条氏政の両勢力の接点となり、幾度か戦いが行われました。この高札は、武田氏が光源院を陣営として、寄居鉢形城の出城であった日尾城を攻撃した時、光源院を保護するために発せられたものと伝えられています。 戦国時代の当地域の状況を知る上で貴重な資料です。 (現地説明板などより)
曹洞宗
有り