もりじんじゃ(ふとのりとじんじゃ)
奈良県天理市森本町178
森本集落の北東、奈良市と桜井市を結ぶ街道の東沿いの森に鎮座する神社を今、森神社と称するが、『延喜式』神名帳の式内大社太祝詞神社にあてられる有力候補の社である。 祭神天児屋根命。寛文五年(1665)の..
森本集落の北東、奈良市と桜井市を結ぶ街道の東沿いの森に鎮座する神社を今、森神社と称するが、『延喜式』神名帳の式内大社太祝詞神社にあてられる有力候補の社である。 祭神天児屋根命。寛文五年(1665)の棟札に「祝太詔戸神社之上棟 祭神亀津姫命」の墨書や、「森恵家系譜」の寛永十五年(1638)の記事中に、「杜本邑太詔戸社北隣清水丘に館建立」とあることから、当社が添上郡太祝詞神社(大。月次、新嘗)の杜と考えられたとみられる。 創祀は明らかでないが、古いことは『新抄格勅符抄』によると、太詔詞神社は、天平神護元年(756)大和国内に神戸一戸をあてられていることでわかる。『延喜式』神名帳 京中坐祝三座の中の左京二条坐神社二座太詔戸命神の頭注に、「本社大和国添上郡・対馬国県郡太祝詞神社」とあるのは、平安遷都に当たって、大和国の諸社が京中へ遷座の節、当社も京中へ移されたとみられる。と同時に、元々この神は対馬国の占部に祀る亀卜の神で、天平神護元年ごろ大和の添上郡へ勧請されたと考えられる。 現在祭神は天児屋根命としているが、寛文五年の棟札に「祝太詔神社之上棟 祭神亀津姫命」とあるが(宮司家所蔵文書)、『釈日本紀』の「禹兆伝」を引用した「式内社調査報告」は、当社を占部氏の管掌する神社であったと推量されている。なお『坊目拙解』はこの式内社は奈良市新在家の社にあてている。 -奈良県史(神社)より-