だいうんじ
栃木県佐野市相生町28
阿弥陀如来をご本尊とする大雲寺は、永禄年中(1558年〜1570年)唐沢山城主佐野昌綱を開基に、開山に真蓮社天譽上人を迎え開創された。創建の地は唐沢山麓の館野であった。 この時代は群雄割拠の戦乱の..
阿弥陀如来をご本尊とする大雲寺は、永禄年中(1558年〜1570年)唐沢山城主佐野昌綱を開基に、開山に真蓮社天譽上人を迎え開創された。創建の地は唐沢山麓の館野であった。 この時代は群雄割拠の戦乱の世で、西からは上越の山々を越えて上杉謙信が、南からは利根川を渡って小田原の北条氏が、虎視眈々と北関東へと蝕手をのばしていた。 上杉謙信が佐野城(唐沢山城)を初めて攻撃したのが永禄4年(1561年)で、北条氏の圧迫によって上杉勢が唐沢山城から撤退するのは永禄12年(1569年)である。 当山が創建されたのは、佐野氏にとって危急存亡な時代であったとも言える。それ故にこそ昌綱は、明日をも知れぬ身を”御仏”(阿弥陀如来)にすがり、来世は極楽に往生するのを願い、当山を建立したのであろう。 戦乱の世も終わりに近づいた慶長7年(1602年)唐沢山城主佐野信吉は、佐野庄天命の春日岡(現在の城山公園)に新たな城郭の建設に着手した。嶮難の地である唐沢山から、平坦な地である天命(1633年頃から天明)への移城については従来、江戸大火展望説・山城禁止説等があるが、近世における城郭が臨戦体制的な軍事目的よりも、物流の要衝たる地において、領内経営に当たる政治的目的が優先し造られた事を考慮したとき、信吉もまた当時の趨勢によって移城したと考えられるのである。 信吉は築城工事と平行して天命の町造りも行った。まずは城下の南に広がる台地を碁盤の目状に区画し、街路の突き当たりに寺院を配置した。有事の際、寺院が防塞的役割を担わせる為であった。 当山も町造りの一環として、館野から小屋町木戸外の現在地に移設されたのである。 昭和30年代の所得倍増に伴う高度成長に連れ、我が国ではモータリゼーションを迎える。これに対処して佐野市では昭和34年(1959年)9月、中央通り(県道67号線)など主要道路で交通省の調査が行われた。その結果、交通緩和を図るため、相生町・犬伏線を新設する計画が立案されたのである。この計画により当山は堂宇・墓地いっさいが移転を余儀なくされた。 堂宇の移転、墓地の改葬がすべて終わり、竣工祝賀及び慰霊法要が盛大に執り行われたのは、昭和37年(1962年)9月9日であった。 越えて昭和42年(1967年)4月、壇信徒の協力により浄土宗開宗800年記念事業としての、本堂の屋根その他の改修工事が行われた。
阿弥陀如来を御本尊とする大雲寺は、浄土宗の寺院として永禄年中(1558~1570)唐沢山城主佐野昌綱を開基とし開山に真蓮社天譽上人を迎え、唐沢山麓に創立された。 その後、江戸時代初期に唐沢城の移転にともない佐野庄小野町の現在地に移築。
龍王山
松柏院
浄土宗
永禄年中(1558〜1570)
阿弥陀如来
真蓮社天響上人
佐野昌綱(唐沢山城主)
■JR両毛線■東武佐野線 佐野駅 から徒歩10分(774m)
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