いちのみやじんじゃ
岐阜県高山市国府町名張1691
創祀未詳なれども、古書に祭神下照比賣命下照大権現等とあり、往昔より一之宮大菩薩と称し、大宮又は一之宮と称す。元禄検地帳他書に一之宮とありて、旧名張郷の産土神たり。慶長年間国主金森長近大衆院をして祭祀..
創祀未詳なれども、古書に祭神下照比賣命下照大権現等とあり、往昔より一之宮大菩薩と称し、大宮又は一之宮と称す。元禄検地帳他書に一之宮とありて、旧名張郷の産土神たり。慶長年間国主金森長近大衆院をして祭祀せしむ。金森家代々の崇敬篤く、社殿の造営修理葺替幣帛の寄進あり。金森家國替以来歴代の官人亦当社を崇敬し、社殿その他造営の寄進あり。昭和三年四月七日一之宮神社と改称す。寛政三年七月当社別当大成院第六世権大僧都祖慶法印高山之人儒者赤田元義先生に乞ふて識せる本社祠堂記(抜粋)「大宮祠は州治西に二里余り名張村に在り。本尊下照大権現十一面観音を以て配す。境内円丘となり、老欅四方を覆ひ、清流祠の傍ら東北に流れ逆に西南に流れ、蓋し神通川と謂ふならん。是より名張郷社にして、氏子名張氏の曾孫なり。本社は往古国分寺祀職を掌りしが、後に至り修験師道玄覚之に変はり中世千光寺の祭祀となる。高原郷麻生野城主江馬浅之進慶盛の二男小次郎越中國舟倉真言宗泰立寺光尊上人の門弟となり、養慶と号す。慶長十六年国主金森氏の命により本社別当となり、大衆院(後に大成院に改む)と号す。なほ時としては右別当代として松泰寺之を掌る慶応四年より加藤織衛之に代はる。以下略。
下照比売命
9月6日