はらじょうあと
長崎県南島原市南有馬町
原城は1496年、東肥前までも勢力を延ばし当時26万石ともいわれた領主・有馬貴純によって築かれたといわれる。有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害で、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城であった。 16..
原城は1496年、東肥前までも勢力を延ばし当時26万石ともいわれた領主・有馬貴純によって築かれたといわれる。有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害で、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城であった。 1616年大和五条より松倉重政が入封、一国一城の令によって島原城を築城した為、原城は廃城となった。 1637年、この廃城となっていた原城に一揆が籠城し「島原の乱」が勃発。島原藩主の松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした。この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。しかし、攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流、廃城となっていた原城に約3万7千人が立て籠もった。 そこで小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織立った籠城戦を展開して幕府軍と戦闘を繰り広げた。
無料
40分
有り